マンブローグ

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アメリカの女子高生が早起きして片思いしてる男の子と一緒にトンボの羽化を見る話



美容室で昔のジャッキー・トニー・ショーの再放送が流れています。

テレビの中で尻に電撃を浴びたり唐突にびしょ濡れになったり意地の悪い言葉でいじり倒されているコメディアンたちを見てなんとなく下に見ていたけれど、高校生になってからテレビに出られているだけでも、彼らには一握りの輝かしい才能と運が備わっているということが分かりはじめ、何だったら1回の放送で父が1ヶ月頑張って働いたのと同じくらいのお金を貰っているらしいことを知って、急に心がひやりと冷えてしまったのでした。


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母から裏庭の草むしりを頼まれて渋々やります。一夏放っておけばこうなるだろうな、と想像していた倍以上の雑草が繁っていて目眩がします。

9月半ばになっても日差しは夏のままで、背中にTシャツが張り付きます。青い匂いが鼻に抜けます。屈んだ拍子に汗が目に入り、痛みで動けなくなりました。コンタクトをしているとたまにこういうことがあります。でも眼鏡は似合わないから絶対にしたくないのです。

休憩を挟みながら2時間くらい、目に付く雑草を抜き続けると裏庭は次第に殺風景になってきました。両手いっぱいに抱えても、少なく見積もってガーベイジに3往復はしないと捨てきれないくらいの草の山が、視界の隅にそびえています。
種が飛ぶため、本当なら抜き終えた雑草はすぐにゴミ袋に入れた方がいいのですが、今日はちょっと疲れたのでやめておきます。


部屋に戻って、軍手を軽く手洗いして洗濯機に放り、シャワーを浴びます。
身体を拭いて、下着のまま台所へ行き、立て続けに水を2杯飲みます。コップを濯ごうとしたとき、顔の辺りにくすぐったいような違和感を覚えます、髪の毛かな?

しかし、何度か手で払ってみてもなかなか取れず、少し粘つくような、これはもしかして。
洗面所に向かい鏡の前に立ち、iPhoneのライトを点けて下から自分を照らします。目を凝らすと、人工の光を吸った一筋の細い糸が顔から肩の辺りに掛かっているのが分かります。

アヤツリグモの糸です。

洗面台に水を張り、ゆっくりと糸を浸します。重曹をひとつまみ入れて2分待ち、水を入れ替えます。水中で糸を撫でて、真っ直ぐに整えます。その後、水から引き揚げた糸をキッチンペーパーの上で陰干し。室内でも気温が高いので結構早く乾きます。1時間くらい。


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アヤツリグモは特殊な蜘蛛で、私たちはなかなかその姿を目にすることがありません。路地裏や藪、古びたガレージなど、一般的に蜘蛛の生息していそうな場所には、彼らはいません。

家の中でごくたまに、別に巣があるようなところにいった覚えはないのに、ふと顔や腕に蜘蛛の糸がかかっているような気がすることはありませんか? そんなときは大抵、アヤツリグモの糸が空中に漂っているのです。

今回もしや、と思ったのも、シャワーを浴びてすっきりした矢先のことだったから。
陰干しして十分水気の取れた糸を、キッチンペーパーごとそっと持ち上げて、2階の自室に運びます。勉強机の真ん中の引き出しには同じような糸がもう8本しまってあります。
これで、全部で9本。集め始めたのは4年前の7月のことですから、半年に約1本のペースでやっとここまできました。

重曹で洗って補強してあるので、滅多なことでは切れませんが、念のためセロテープでなくマスキングテープで端を机にとめて、3本を三つ編みにしていきます。強度はあっても単純に見えにくいので、手元はiPhoneのライトで強く照らします。銀色の光の筋を、外から内へ、外から内へ、丁寧に編み込んでいきます。

こうして出来た3本の三つ編みを、最後にもう一度三つ編みにして、一本の太い糸にしていきます。階下から母に呼ばれます。いつのまにか夕飯の時間になっていました。


母お手製の巨大なミートローフをやっつけて、作業の続きに取り掛かります。9本の蜘蛛の糸で編まれた糸は、流石に強い光源に頼らずとも、肉眼でちゃんと見えるようになります。

長さが少し足りないので糸を挟んだ掌を強く擦り合わせます。目指すは錦糸のような細やかさ。長さにして、大体1.5メートルくらいになったら伸ばすのをやめます。片方の糸の先を温度計の先に軽く巻きつけ、もう片方を指の先でつまみます。目盛りがすぐさま32℃を示します。
成功。静かな興奮が胸の内に湧き上がるのを感じます。

エリオットに送信する文面を考えます。
“やほ! 夕飯何食べた〜?”
軽すぎますね。
“夜分すみません、今よろしいですか”
堅すぎる。間を取ります。
“こんばんは! 今何してる?”
これくらいでいいでしょう。
エリオットからすぐに返信があります。
「風呂から上がったとこ カージナルス戦見てる」
野球のことはわからないので、用件だけ端的に伝えます。
「“糸”、さっき完成したから、よかったら明日羽化を見に行かない?」
「嘘! マジ? 絶対行く」
「じゃあ、湖畔広場の入り口で。朝4時半に」

デートが決まりました。
早起きに備えて、私も早くシャワーを浴びて寝ないといけません。


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結局なかなか寝付けずに寝坊して、湖畔への到着は集合時間ぎりぎりなってしまいました。
広場の入口に自転車にまたがったままのエリオットが待ち構えています。
「遅いぞー」
「ジャスト・オン・タイムでしょ。遅刻はしてない」
「“糸”見せてよ。まさか忘れてないだろうな」

エリオットは、私が髪を切ったことに気づきませんでした。でもいいのです、私も自分の新しいヘアスタイルより、アヤツリグモの編み糸を見て欲しかったので。鞄から、編み糸を巻きつけた厚紙を取り出してエリオットに手渡します。

「ワーオ、すごい、こんなに綺麗なんだ。シルクみたいだ」
エリオットの目が輝いていて、私も嬉しい。
あとはこの糸が、ちゃんと機能してくれれば申し分ありません。


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「アヤツリグモは普通の蜘蛛とは違い、巣を張りません。かといってハエトリグモやアシダカグモのように俊敏な動きで餌を捕らえるのでもなく、彼らは、名前の通り他の昆虫を操ることで捕食を行います。

アヤツリグモの糸は他種の蜘蛛の糸と同じく、腹部の先にある穴から出てきます。長く伸ばした糸を空中にたなびかせ、或いは地面に這わせて、先端を対象の昆虫に付着させることで、彼らはその体を支配します。

昆虫の体の側面には呼吸を行う為の気門があります。アヤツリグモは、腹部で作り出した特殊なホルモンを糸に伝わせ、気門を通して昆虫たちの運動神経に干渉するのです。

アヤツリグモはその糸の精製に不可欠な、清潔な水のある場所を好みます。ヒトの居住域で稀に彼らの糸が発見されるのはその為です」


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家にあった古い昆虫図鑑で初めてこの記述を目にしたとき、私は大層がっかりしました。というのも、糸で操る、というイメージが先行して、アヤツリグモはマリオネット屋さんのように陽気な感じなんだろうなと、勝手に想像していたからです。

「あ! それ俺も思ってた」
エリオットと初めてちゃんと会話をしたのは、4年前、中学校の教室に大きな蜘蛛が出た日のことでした。
担任のマール先生が悲鳴をあげながらなんとかそれを退治するのを見届けた後、友人たちとの間で、ふとアヤツリグモの話題になったのです。私が先述した幻滅について話すと、傍で聞いていたエリオットが会話に割って入って来ました。

「絵本で読んで、ずっと操り人形師みたいな感じだと思ってたんだけど、一回おじいちゃんが捕まえたの見せてもらったら、全然違って。かなりショックだったな」
その後、落ち込んだ孫を励ますためか、エリオットのおじいさんは幼いエリオットにこんな話をしたのだそうです。

「アヤツリグモの糸を束ねると、人間も虫を自由に動かせるようになる。糸の片方の端を虫の腹に結んで、もう片方を人が掴むと、意図が糸を伝って、虫に届く」

そんなまさかね、と、その時はみんなで笑ったのですが、後からちゃんと調べてみると、それはあながち嘘でもないらしく、アヤツリグモが今よりもっとたくさんいた30年ほど前には、編み糸を用いた虫のサーカスが全米にいくつも存在していたのだそうです。

実は私も、アヤツリグモの糸に関しておばあちゃんから別のお話を聞いたことがあったのですが、その時はなんとなく、周りのみんなには言えずじまいでした。


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もしも自由に虫を操れる糸があったとして、なんの虫に括り付けるのが最もエキサイティングでしょう。
ビートル? クワガタ? 大きな甲虫は動きがのっそりしていてつまらない気がします。バッタ? カマキリ? 蝶々? どれもピンと来ません。

「トンボ、良くない? ほら、ドローンみたいで」
エリオットの提案です。晩夏の湖畔を滑るように飛ぶ大きなギンヤンマ。直角に曲がる、急停止、ホバリング。その飛行能力で虫網を易々とかいくぐる彼らを自由に使役することができたら、どんなに楽しいでしょう。

「でもトンボ、なかなか捕まえられなくない? 糸をお腹に結ばないといけないんだよね」
「羽化の直後を狙えばいいんだよ」
「なるほど……」

こうしてこのとき私とエリオットは、いつかアヤツリグモの糸を集め、水辺で羽化したてのトンボを操る約束を交わしたのでした。


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夜明け前の澄んだ青が空気を満たしています。エリオットがリュックから懐中電灯を取り出し、辺りを照らします。

トンボの幼虫、ヤゴは最後の脱皮の時期になると、長く住み慣れた水中から抜け出し、水面に突き出た背の高い木の枝や水草によじ登ります。羽化をする彼らを見つけるには、湖面から数十センチの高さの水草を眺めると良いのだそうです。

「もっとうじゃうじゃ居るもんだと思ったけどな」
「時期が遅すぎたのかもね」
「あ」
エリオットが指差す方を見ると、一匹の大きなヤゴが水草にしがみつき、体を静止させています。
「抜け殻じゃないよね」
「違う、微妙に動いてる、気がするけど、どうだろう」

私はこれまで、羽化といえば蝶々か蛾の、しかも学校の教材ビデオで見た早送りのものしか見たことがなかったので、目の前のリアルな光景は逆にコマ送りを見ているような気分になりました。

背中に入った縦の筋がじわじわ濃くなり、そこから薄く、透明な緑色をした成虫の、大きな目が覗きます。ヤンマは大きく体を反らしながら、頭、しわしわの羽、胸、と順番に抜け出し、あるところまでくるとゆっくり体を起こします。
6本の腕で灰色の半抜け殻を掴み、小刻みに震えながら、一息に引っこ抜くみたいに長い腹を露わにします。
エリオットが深い深いため息をつきます。

「出てきた……」
出てきたね、と私も思いますが、空気の震えがヤンマに伝わるような気がして、何も言えません。

家を出るとき辺りは真っ暗だったのですが、朝日のほんの端っこが遠い山合いから覗いた途端、眼に映る風景全てがにわかに鮮やかに色づき始めます。
湖畔に根付く背の高い葦たちは、息を吹き返したかのようにその緑色を濃くし、胸を張っています。湖面に乱反射した陽光が、視界をまだらに焼きます。

ヤンマの方はというと徐々に羽が伸び切り、半透明だった体がゆっくりと色づき、輪郭がしっかりしてきます。ギンヤンマ、全然銀色じゃないな。
青と緑が混ざった色をしている、確かな輝きがある、もしかしたらこの体に一色でも黄色や、オレンジ系の暖色が差してあれば、もしかしたらキンヤンマと呼ばれていたかもしれない、など、取り留めのないことが頭に浮かびます。


40分、もっとでしょうか。私たちはヤンマの羽化に釘付けになっていました。明け方のマジックアワーと昆虫の羽化という神秘が重なって身動きが取れなくなっていたのです。
危うく目的を忘れてしまうところでした、エリオットの脇腹を強めに肘でつつきます。

「エリオット、糸、糸」
エリオットは一瞬ハッと我に帰りますが、そのまま難しい顔をして言います。
「やっぱやめとこうぜ」
え〜?
「せっかく早起きしたのに!」
思わず語気が強くなります。

そのとき、私の声を合図にしたのか、それとも偶然か、羽化したてのギンヤンマは音もなく羽を動かし、私たちの視界からすっと消えます。急いで視線を動かすと、その美しい蜻蛉はもう遠くで風を切っています。遠目で見ると確かに銀色に見えないこともないな。

「ほら、飛んでっちゃったじゃない」
エリオットを咎めます。
「いや〜、でも最初から最後まで羽化見ちゃうとさ、いきなり自由を奪うの無理じゃない?」
確かに……。
「でも…… 羽化直後を狙うのはエリオットの案だったでしょ」
「うん、でも無理だった。というか、ちゃんと羽化見ちゃうと、これから虫網でトンボ捕まえるのもちょっと躊躇するな」

エリオットの言わんとすることは分からないでもありません。つい数分前まで目の前で起こっていた儚く、しかし力強い命の営みは、確かに何人たりとも彼らの自由を奪うべきではない、そんな気持ちにさせられる光景でしたから。

でも、その編み糸作るのに4年も掛かったんだけどな。せっかくだし、いつかおばあちゃんから聞いたアヤツリグモの糸のお話を試してみることにします。

「エリオット、糸返してくれる? あと指、貸して」
怪訝な顔をするエリオットを尻目に彼の薬指の第一関節に糸を結びます。もう片方の糸の端っこを持って念じます。

…………。

「何これ?」
「何も感じない?」
「感じないな」
「そっか」

残念ながら、どうやらおばあちゃんのお話は迷信だったようです。アヤツリグモの糸を介せば、人間にも自由に思いを伝えられる、という話だったのですが。いや、ちゃんと伝わったところで恥ずかしいんだけど。

「そういえばさ、髪切った?」

まあ、今日のところはこれくらいで良いかな、と思います。